長島公園と虎御前
2004年 09月 24日
源平の合戦で平家は壇ノ浦の戦いでほぼ壊滅となりましたが、大納言 平時忠一族は京都で保護を受けていましたが、(天皇になるための三種の神器を隠し持って持っていた?)
時実(時忠の子)の姉娘 藤姫を義経の第二夫人とし平家の再興を願っていましたが、頼朝は、義経を妬み追討しようとし、時忠は能登の大谷へ時実は周防(山口県)へ流罪となりました。
義経は、主従16人で安宅の関を越え海路はるばる大谷の時忠の病気見舞いや藤姫を訪ね能登で幾日か過ごし、珠洲の須々神社に海路安全を祈って奥州の藤原氏をたより能登を離れました。
身重の藤姫は、義経の跡を慕い山を越えようやく間島の長浜にたどり着きました。
船便を求めて後を追わんとしましたが、疲れて遂にこの地で死んでしまいました。
村人は哀れみ、碑を建てて虎御前の墓と称して古来伝わっています。
虎御前は、木曽義仲の妻として知られていますが途中伝説の誤りもあったと思いますが、
昔から虎御前の墓として伝えられているので真実はさておき、義経ロマンを感じてみて下さい。